長崎原爆の日に寄せて 〜平和のバトンを未来へ〜

目次

 原子爆弾

8月9日は、長崎に原子爆弾が投下された日です。

1945年のこの日、午前11時2分。街は一瞬で壊れ、7万4千人以上の命が奪われました。

数多くの人々が深い傷と悲しみを抱えて生きることになりました。

放射線の影響や差別、心の傷が人々を長く苦しめたことをTV等で、改めて知りました。

元プロ野球選手の張本勲氏が広島で被爆し、お姉さんが全身火傷で苦しみながら亡くなっていったことを体験談で語っているのを、義母と夫とTVで拝見しました。

家族や身近な人が亡くなることは言葉に表せないつらさだと思います。張本勲氏は、お姉さんを思い出しつらくて、広島平和記念資料館(原爆資料館)に数年前まで行けなかったと語られていました。

私は乳がんの放射線治療で豆粒大の火傷・水ぶくれになり、それだけでも激痛だったのに、全身火傷を負ってしまうのは想像を絶する痛さ・つらさだと思います。

生き残った方々も原爆症(放射線による吐き気・下痢・脱毛・倦怠感・ケロイド・白内障・白血病等)やPTSDに悩まされたそうで、どんなにつらかったでしょう。

私の子ども時代

私は2歳から14歳まで広島県佐伯郡(現在佐伯区)で暮らし、平和教育を受けてきました。

広島では原爆で約14万人が亡くなり、8月6日の原爆投下時間(8時15分)に街中にサイレンがなり黙祷を捧げます。

同じ学校に通う原爆2世の子は、突然鼻血が止まらなくなる症状があり、寝ている間にも鼻血が出て、朝起きると枕が血に染まると言っていたのを思い出します。

学校では被爆者の方の体験談を聞き、原爆資料館や平和記念公園を訪れました。

原爆ドームの前に立ったときのあの空気の重さ、平和記念資料館で見た写真や遺品の衝撃は、今も忘れられません。

夏になると、8月6日の広島原爆の日、そして8月9日の長崎原爆の日は、特別な思いで迎えていました。

心残り

私は自分の子どもたちを広島や長崎に連れて行く機会を持ちませんでした。

以前に友達が、平和教育のために子ども達と広島に行った話を聞いて、私もいつか子ども達と広島・長崎に行けたらと思いつつ実現していません。

長男と話したら、長男は高校の修学旅行で広島に行き、平和記念資料館にも行っていました。

次男と話したら、仕事の出張で広島に行ったことはあるけれど、時間の余裕がなく平和公園までは行けなかったそうです。

資料館は、見ると胸が締めつけられるほどつらいですが、それでも「日本人は一度は見ておくべき場所」だと思っています。

そこには、「二度と戦争をしない」という強い願いと、私たちが忘れてはならない現実があります。

私たちができること

長崎も広島も、今は美しい街として復興し、平和の大切さを世界に伝え続けています。

その姿から、大切な人々を亡くし悲しみを乗り越えた人々の切なさや、平和への強い意志を感じます。

私たちができることは、まず知ること。

そして、日々の生活の中で、平和のために小さな積み重ねをしていくことだと思います。

家族や友人、地域の人と助け合い、相手を思いやる・・・それが平和の土台になるはずです。

日々の対話、異なる価値観への理解、争いを未然に防ぐ努力・・・その積み重ねこそが、平和な未来への力になります。

おわりに

今年の8月9日は、私の住む一戸町奥中山地区のお祭り(奥中山聖徳太子堂祭り)と重なりました。

地域の子ども達が山車や神楽に参加し、流し踊りには大人達も参加し平和な光景でした。

私は、足の筋炎のため歩いて見ることが大変で、祭りの終わり頃に車で遠くから眺めさせてもらいました。

友達が動画や写真をたくさん送ってくれて、笑顔の子ども達の様子を見て嬉しく思いました。

世界を見渡すと今も戦争が起き、たくさんの命が奪われ子ども達も犠牲になっています。

ロシアによるウクライナ侵攻、パレスチナとイスラエルの戦争、止まってほしいです。

同居している88歳の義母が「戦争はダメだ」「戦争にお金を使っちゃダメだ」と言っています。

私も地域の子ども達を見ながら、孫達を見ながら

「どうか、子ども達が戦争の悲惨さと平和の大切さを知り、争い事を起こさない賢明な優しい大人になれますように」と願います。

平和な毎日、日々の幸せは、当たり前のようで当たり前ではないのです。

平和のバトンが次の世代へ、しっかりと渡っていくようにと願います。

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