人は皆、そんなに強くないから、大多数と違うということで、白い目、同情の目、偏見を抱いて見られると、とても辛いものです。
支援学校時代の生徒達も、今の福祉事業所のメンバーも、ひとりひとりの人間性が皆、素敵で、私は見えない宝物を沢山頂いてきました。
関わり合いの中で、心がホッコリ温まり笑顔になるエピソードもたくさんあります。
けれども現実は、本人も家族も、特性があるゆえに、周囲に偏見の目で見られ、傷ついてきた過去があるから、苦労しているし、トラウマもあります。
自分が福祉事業所に通ってることを伏せたい人も多くいます。
福祉事業所=障がい者が通う所=大多数より劣っている人たち、と思われるからでしょうか。
私自身も、両足に大きな白斑があり、子どもの頃は、自分の足に向けられる周囲の視線が気になったものでした。
高校時代は特に水泳をやっていたので白斑のある足は目立ちました。
幸い母の教えで、私の気持ちの方が強くなり、年齢と共に気にならなくなりましたが…(母の教えは、また別の機会に記します)
自分の経験から、周囲と違うことで、好奇の目で見られるのも、同情の目で見られるのも嫌でした。
逆に、素敵な声がけをしてくださる方もいて、そういうホッとするような声がけは、今でも心に残っているし、自分が福祉の仕事をする中でも活かされていると思います。
少し話は変わりますが、私はいつも、「障がい児・障がい者」という言葉に違和感を抱いています。「健常者」という言葉にも違和感を抱いています。
人は誰でも、何かしらを抱えて生きているから、「健常者」と「障がい者」という線引きがなくなるといいのにな〜と思うのです。
私自身、特性を多々持っているので、自分が「健常者」なのか「障がい者」なのか正直わかりません。
障がい(生きづらさや障壁)を感じるのは、ハンディキャップのある本人の問題ではなく、社会のあり方の問題です。
ハンディキャップの有無だけでなく、性・年齢・育児や介護に携わる人なども含めた多様性を大切にし、お互いの個性や立場を理解しあえる社会になればいいな〜と思います。
社会全体に理解が広がり、ハンディキャップや特性が、「一つの個性」「ただの個性」「ただ、そういう人」という風になってほしいな〜と。
役所的には、ハンディキャップ等があり合理的配慮が必要で福祉サービスを使う方々の呼び名が必要かもしれません。
その場合は、ただ「福祉サービス利用者」や「手帳保持者」という呼び名で良い気がします。
「障がい」という言葉が、本人に何か欠けがあるように感じさせてしまうのが嫌だな〜と思うのです。
欠けではなく個性なのです。
言葉に含まれる偏見や差別がなければ良いのですが・・・
目指す先は、「多様性」という言葉を使わなくて良くなる社会です。
金子みすゞさんの詩で「みんなちがって、みんないい。」という一節があります。
私の好きな言葉です。
大正時代の詩人が、素敵な言葉を謳っていらっしゃるな〜と心に響きました。
そうです!みんなちがっていいのです!
本来、違いがあることは強みなのです!
皆と同じだと、つまらないですよ!
ひとりひとり違ってOK。個性があっていいね!と、丸ごと認めあえる温かい社会を目指しましょう!
今まで傷ついてきた人は、どうぞ傷が癒えていきますように・・・
あなたは、あなたのままで良いのよ〜
自分らしく輝いて、穏やかで笑顔の毎日を!